HOUYHNHNM Unplugged サマ ご掲載大変ありがとうございます!!!!! #テガキ 誕生までのいきさつ

HOUYHNHNM Unplugged さま 創刊おめでとうございます!!!!!
 
そして、#テガキ ご掲載 大変ありがとうございます。
なんとプリモ大先生と同じページ 大感激 大恐縮であります。
 
思えば…98年のGANGSTARRが表紙の雑誌でMUROさんが
紹介していたレアグルーヴのレコードを見ながら
#テガキがスタート致しましたのでとても感慨深く
思っております。

 

 

 

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駄文で失礼致しますが・・・

今回は少し #テガキ 誕生までのいきさつを遡ってみたいと思います。

 

1979年
ソウルのレコードのファンジンを編集していた父親”あるうち買うときやByサムズのおっさん”で一部で有名な堺の老舗レコード店のサムズや神戸のハックルベリーレコード等の
DEEPなレコード屋さんに生後間もなく連れて行かれるなど、
胎児の頃からサムクック、オーティスレディングやJBからオールディーズまでも流れる家で育つ。
 
当時の実家が1979~80年代の尼崎というゲットーで下町環境だった事もあり
例えば、ルーファス トーマスは鶏の真似をする中川家兄的な存在だと思っていたし、
ジェームス ブラウンもミュージシャンというより動きがヤバいヒーローの様に
解釈していた。幼少期は名前が覚えられず”ゲロッパのおっちゃんや!”と呼んでいた。
 
最初に井筒監督の映画”ゲロッパ”の冒頭シーンを見たときは当時の尼崎の雰囲気と
かなり ダブって見えた。あそこまでヤクザ稼業ではなかったが当時の関西の街は
もっとパッと見でわかる ”こわーい人”が多かった気がする。
”IT'S A MAN'S WORLD”がハマるあのセカイ・・・。焼き肉屋さんのソウルの看板も
ソウルオリンピックが始まるまでは勝手にJBみたいな音楽なのかと思っていた。
とにかくソウルミュージック阪神タイガースに囲まれて育っていった。
 
そんな”ソウル”や家では有名なジェームスブラウンの事を小学校で話しても誰にも
通じない事に気づかされてしまう。以後、心を閉ざしソウルの話は誰にもしなくなる。
 
1990年
小学校5年生の時にダンス甲子園を見て、ニュージャックスウィングの都会的な音色に
心を奪われる。いつか僕もフェアレディZに乗って、全身真っ黒な服を着て、ドレッドにして RIKACOの様なボディコンのオネーさまを乗せてGUYやBOBBY BROWNやBABY FACEを
聴きながら首都高を流そうと ひそかに夢見ていた。
 
が、しかし
中学に入った現実はビーバップハイスクールの様なヤンキーの先輩20人、
同期が4人しかいないサッカー部。 当然サッカーなどは殆どできない。
砂場に埋められて その上に女体の立体を作られた・・・・り
突然女子バレー部が練習している中で 告白してこい・・・とか 
”サッカー命っす!”て体育館の上で叫ばされ・・・とかで
僕たちの夏が終わった。
 
唯一の楽しみは家で”Produced by Teddy Riley”の文字ばかりひたすら探す事だった。
そこからHeavy Dを聴いていくうちに、この早口がカッコイイんじゃないか!?と
RAPという重要な部分に気付き始める。そして“Blue Funk”が出たときに確信に変わる。
そこで初めて“PeteRock”や”Dj Premier”のクレジットを見る。
 
ケーブルテレビなるものが家に設置されて何気なく見ていたMTVに突然
YO!MTV RAPという番組が始まった。一気に“Blue Funk”のセカイと繋がった。
レコードやCDだけではわからなかった”PV”映像のセカイ。
着ている服やつけてるヘッドフォン、ドラッグストア、ブルックリンブリッジ、
エンパイアステイトビル、クライスラービル・・・アッと言う間にNYが憧れの街となる。
そしてWU-TANG CLANというグループのインタビューでODBが話している映像を見たときに
ビーバップハイスクールの様なヤンキーの先輩20人のノリと一致する何かを感じた。
きっとあの人たちは先輩達の”NYのイケてるバージョン”なんだという勝手な親近感と他の音楽文化には無かった”粗暴の美学”とも言うべきリアリズムを感じていた。
 
そこから高校に入る。母校は制服が無かった為、スヌープのPVで見かけた カールカナイ、
モーリスマローン、PNB NATION 、POLOSPORTS、買えないものもほとんどだったが、
ただのヌバックのブーツにティンバーランドのロゴを油性マジックでヒールに描いて
ムリヤリ履いたりもしていた。(後にホンモノと間違えられてカツアゲされるが・・・)
とにかくYO!MTV RAPのセカイの事しか考えていない生活。
今、黄金期とされているHIPHOPばかりMTVからカセットに落としてCOBYで聴いていたら
高校が終わった。田舎の高校だったので、そういうB-BOY友達は一人も出来なかったが・・・。
 
1997年
その後、神戸の大学に入ってすぐに、相変わらずB-BOY友達もいないまま KING of DIGGIN
MUROさんのDJを大雨の中、神戸のDIAMOND LOVEというクラブに一人で見に行った。
 
まだ創刊されたばかりのWARPやWOOFIN、それこそ”さんピンCAMP”などで
東京のB-BOYはスゴいって事は知っていたけれども・・・
コカコーラーをサンプリングしたSUPREMEの赤いBOX LOGOを着た人や、
細いドレッドでローリンヒルの様なファッションの女の子・・・とにかく
初めて実際に見るイケてる東京っぽいカッコイイB-BOYが沢山集まっていた。
 
まだ、インスタやシャザムや写メはおろか携帯電話も持っていなかったし
誰かに話しかける勇気もなく、只々落ち着かない時間でもあったが・・・
MUROさんのDJが楽しみすぎて、きっとヤバいHIPHOPばっかり なんだろうなと
期待に胸を膨らまし続けていた。
 
そしてMUROさんのDJが始まった時に衝撃を受ける・・・
Mary Jane Girls "All Night Long” やCommodores "brick house"やJamesBrown ”Funky Drammer”・・・とにかく僕にとって 最初に感じた衝撃は・・・
”ウチの親父が聴いてる音楽だ!!!!!!!!!!!!!!! ” だった。
 
幼い頃から家で聴いた事がある あの”ソウル”だったという事。
ただ家や親父と全く違うのは、"イケてる東京っぽいB-BOYが踊りまくっている現実”だった。
(そこが最も重要な違いなのだが…)とにかく、親父は想像以上にカッコイイのかもしれないと
実感するきっかけになった。それがMary J Blige “Mary Jane (All Night Long)”を
聴きながら 家であのImpeach The Presidentのオリジナル7inchを見つけた瞬間に確信に変わる。
大嫌いだった親父のイメージが一変。ひそかに尊敬の念を抱き始める。
青春期とは単純なものである。
 
そして、入ったばっかりの大学にも行かずに、ひたすら引きこもり生活を加速させた。
家に山の様にあるソウルのレコードをこっそり探す時間に費やされたのだ。
ちなみに 親父のレコードはABC順にEXCELでも管理されてあり
(もはや本人は何を所有しているか記憶では解らなくなっていた・・・)
ヤバいレコードを見つけては どんどんカセットテープに録音していった。
それが何よりも楽しかった。時間はいくらあっても足りなかったし
WOOFINやFRONTでMUROさんDEVLARGEさんBENtheACEさんが紹介している
レコードを樹海の中から勝手に見つけるのが本当に楽しかった。
 
でも・・・ナードな引きこもりに絵のないカセットテープの山は あまりにも寂しかった。
無いなら描けばいい!そもそもレコード買ってないしバイトも殆どしてないんだから・・・。
レコードを買うのではなく、みんなと違う方向で頑張ってみる事に決めた。
その瞬間にワクワクし始めた。
そして深夜まで夢中で 現実逃避して好きな音楽の事だけを考えて
描いている時が一番 心が落ち着いた。これは今も変わっていない。
#テガキ が始まった。
 
 
#テガキ
いわゆるポップアートにおける大量生産の様子を”機械的”に表現する方法論とは真逆の実験。
既に過去に生産された音楽媒体を ”天然描写”表現として ものさしを使わず自由にテガキを
行う。適性違和感も含めた人間味の回復。音楽や映像媒体等への異質な愛着を再確認する行為。